どうも、人生の黄昏時を満喫している琥珀銀です。今回はお風呂上りのチノちゃんを描かせて頂きました。ティッピーの中の人も交代してしまったので、一緒にお風呂に入っても抵抗ないのではなかろうか、とか思ったり思わなかったり。
さてアレですな、ここんとこ推し活ならぬ刺し活が流行のようですな。ファストフード店で並んでいたら刺されたという理不尽なものから、さんざ貢がせて用が済んだらポイ捨ての自業自得的なもの、派手な政治的言動で恨みを買って刺されたものなど、銃がない我が国ならではのアクティビティが展開されております。
毎回言っていることではありますが、この手のトラブルはひとえに人間関係から起きるものです。「争いは人の心から起きるのであるから人の心に平和の砦を築かねばならない」とかいう標語を掲げている某国際団体もありますし、このあたりは普遍的であると言っていいでしょう。
私が変人なのは百も承知ですが、人と関わることを避けているせいか、世間で騒ぐほどダメージを受けていない気がします。てなこと言うと、酸っぱい葡萄だの弱男だから関わりたくても関われないだけだろという声がすぐさま飛んできますが、実際問題、何も起きなければ何も起きないという当たり前の結果が今の自分を救っている気がしてなりません。
なんというかこう、今の人たちはとにかく他人にアピールをしなければ不安でならない承認欲求病に罹っている気がします。何者かになれなければ生き残れない! という勝ち組フレーズにまんまと乗せられている気がしないでもないですが、うまくいくときでもいかないときでも、自分を見て見てアピールが喧しい。むしろ、耳目を集めさえすれば反社会的であっても正義であると言わんばかりです。
人間にとって最も興味がないのが自分以外の他人なのは言うまでもないでしょう。その他人がグイグイとこちらの認識範囲に入り込んでくれば相当鬱陶しいはずです。今どきのようにSNSだのソーシャルだのでいつでもその状態になっていれば、そらストレスMAXとなり刺すだの刺されるだのに発展してしまってもなんら不思議なことではありません。
つまり何が言いたいかというと、皆様方はお互い近づきすぎているんじゃないのと申し上げたい。いつでもネットに接続できる社会をユビキタスと言ってましたが、一緒に付いてきた人間のユビキタス化を見直すべきなんじゃないかと思います。人と人がいつでも触れ合うことこそが至上と喧伝されとりますが、そのこと自体を疑ってもいいんじゃないかなーと思う次第です。
というわけで今日はこの辺で。
また次回まで。