普通という誤謬(ごびゅう)

どうも、ついこの間年末年始かと思っていたらもう2月ですな。歳を取ると年月の進みが早く感じられるものです。こうしてトシをとっていくんですなぁ、琥珀銀です。


 今回はメイドなココアさんを描かせて頂きました。パン屋の娘ですが、結構メイド服が似合うんじゃないかなと思っております。こういうメイドさんがいる喫茶店なら毎日通うんですがねぇ(2次元に限る
 さて今日お話させて頂きますのは「普通」についてです。普通とは広辞苑第七版によれば「ひろく一般的であること。多くにあてはまること。」との事ですが、ようは標準である、大勢と同じくらいであるという認識で良いでしょう。まぁこの辺は皆さん常識と知っている範疇であると思います。
 しかしながらこの普通、実は普通じゃない時に多く使われている事に気がつかれているでしょうか。「普通〇〇だろう?」といわれる時、それは普通でもなんでもない場合が多かったりします。例えば、「普通彼女くらい作れるだろう」と言われた時、「彼女が作れるか、作れないか」だけで普通かそうでないかを判断しがちですが、「彼女を作る」を満たすためには、実はいくつかの普通をクリアしていなければならなかったりします。ここで考えられる幾つかの普通とは、
 ・普通の顔立ちであること
 ・普通の性格であること
 ・普通に異性から好かれること
 ・普通に人生を送っていること
 …という普通をすべて満たす必要があるのです。仮に普通の足切りゾーンを50%と定義した時、上記4つの普通を全て満たす人間は0.5×0.5×0.5×0.5=0.0625 つまり、6%です。100人いたらたったの6人しかいない。にも関わらず「普通〇〇だろう」と言えるのは、この裏に隠れた普通を構成する組み合わせを無視しているからです。普通とは、大抵において単純に一つの事柄だけで構成されていることはまれです。にもかかわらず表面に出ている一面だけで判断しようとする乱暴さがここにあります。
 この乱暴な論理は、特にマーケティング分野において意図的に活用されています。いわゆる「みんなやってるよ?」というやつです。もうちょっと突っ込んで言うと「みんなやってるのにお前だけやってない変人だよ?」と言い換えられ、みんな=普通であり、みんなと同じじゃない=変人として不安にさせ、普通と定義した方向へ引きずり込む方法です。車業界、ブライダル業界、葬式業界、マスコミ、リクルート、電通…思い当たるフシが次々と思い浮かびますよね。
 しかし最近ではインターネット、とりわけSNSの普及で、「普通」を提示する事が難しくなっています。「〇〇こそ普通」と宣言した途端、マジョリティ・マイノリティ問わずそうでない人達(例:非モテ、オタク、LGBT、DINKs、シンママ、貧困層)から反論が来るし、それを誰もが見られる環境にあるため、〇〇でなくても普通とはかぎらないや、と判断できるようになったのです。
 普通である(という)状態は特に日本人にとっては長らく昭和の一億総中流とかそんな感じで安心をもたらすものではありました。しかしマウンティング喧しく格差が広がっている昨今においては、普通を維持する方が困難になりつつあります。「普通はさァ」みたいな物言いを言い出す人間に対しては、眉に唾を付ける態度で臨む時代になったと言えるでしょう。
 それではまた次回まで。
 春の便りが聞こえてくる前にもう一枚ほど描きたいところです。