どうも、異世界に転生したら本気を出す、琥珀銀です。
今回は学校から帰宅して脱ぎ脱ぎしているシャロちゃんを描かせて頂きました。もうちょっとブラのサイズを下げた方がズレないかしら、でもこれ以上は…みたいな葛藤が表現できていればなと思います。貧乳は希少価値。
さて、今日は「孤独耐性」について語ってみたいと思います。最近よく「孤独死」だの「孤独は老後寂しい」だのと喧しいですが、孤独であることは、どうも世間的に「悪」であることと認識されています。というか、これ、我々が子供の頃から教育されてきたことでもありますな。ひとりぼっちは惨めだとか、人は一人では生きていけないだとか、人間は社会的動物だとか、そんな感じで人間が一人でいることは良しとしないことを教え込まれてきたはずです。
しかしながら今、私が思うに孤独であることはむしろ今の世を生き抜く上で必要な事ではないかと感じるようになってきました。もうちょっと詳しく言うと、孤独に対して慣れることが大事だと思うようになりました。
みなさんも実感していると思いますが、実力主義・成果主義・自己責任が喧伝されている今、基本的に人と人が出会うことは争いの始まりを意味するようになっています。会社などでも某課長の言葉を借りれば「我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。」ってな状態になっており、個の実力が問われるようになっています。競争厳しい現代社会では、他人とは自分の利益を最大化するためのステークホルダーもしくは障害でしかないことも多いでしょう。
「え? 私は仲間がいっぱいいて助けてくれるよ?」なーんて人もいるかもしれませn…あ、いや、そんな人はこんな日記読んでませんよね。ここは独居老人のごとき何もかも自助努力を求められる人しかいないはずですんで、そーゆー恵まれた人は別のサイト行ってください。そのようなものは、友として語るに足りぬ。
まぁでも、てなこと言うと恵まれた上級国民やリア充どもが「努力不足」「甘え」などという綺麗事を押しつけてきます。実際問題として、そんなコミュ力高くて人に好かれるんなら孤独になんてなってません。また、人間とは聖人ではないので、我々のような見た目醜悪な存在はむしろ排斥される傾向にある。さらに今の日本は(上級国民を除いて)能力主義ですから、才能の無い人間もまた排斥の対象です。例として「無能な働き者は処刑するしかない」とかいう論法が経営者がよく読む日経ビジネスとかによく載りますしねぇ。
かくして、我々は望むとも望まぬとも孤独である状態を余儀なくされます。ならば、この孤独状態でどれだけ耐性を付け、対処できるかが重要となってきます。
作家の故・遠藤周作氏はかつて、恩師の仏文学者からこう言われたそうです。
「遠藤君、人間の一生で一番、生きるのがムツかしいのは老年です。若い時や壮年時代は失敗しても社会が許してくれます。まだ役に立つからです。しかし役にたたなくなり、顔も体も醜くなった老年には世間は許してくれません。その時、どう美しく生きるか、今から考えておきなさい」
出典:遠藤周作著「ぐうたら人間学 狐狸庵閑話」 講談社文庫
我々の置かれた状況とはまさに、この「老年」に当てはまります。美しく生きるとは様々な解釈ができますが、私としては人間として最低限度の体裁を保ち、僅かでも日々に幸せを感じられる状態であろうと思っています。人との距離を置きつつ、しかし文明の恩恵は享受する。このバランスをとれるかどうかでしょう。それにはやはり独力で生活できる状況にどれだけ近づけるかが課題と言えます。以前も述べましたが、田舎暮らしを始めて社会システムから離れつつも、Amazonのお急ぎ便が利用できる状態にするなどが一案として考えられます。
独りでも楽しめる生活を持ち、独りでも問題に対処できる状態を創る。それが社会から排斥されつつある我ら孤独者が今を生きる上で求められるスキルであると言えるのではないでしょうか。
ま、逆に言えばしがらみと制約の多い世間とは距離が置けるわけで、それはそれで悪い人生ではありませんな。
それでは、また、次回まで。