2023謹賀新年

 明けましておめでとうございます。門松は冥土の旅の一里塚、琥珀銀です。


 今年もチノちゃんに巫女装束を纏っていただきました。今年はちょうどうさぎ年ですからごちうさウサギの団体さんも全員集合です。
今年も年末年始は温泉地でマッタリと過ごす事にしました。今回は北の大地、北海道の網走湖まで来た次第です。
 
 網走湖を眺める景色も素晴らしい…
 
 とは言えアレですな、こんなのは私みたいな非モテキモオタ童貞という社会への貢献を放棄した世捨て人みたいな人間だからできるんであって、いわゆる結婚して子供育てて住宅ローンを組んでみたいな普通の人生を歩んでいる人にとってはそれどころでない相当ヤバい状況です。なにがヤバいかと言うと子育てにもローンにも響く増税ラッシュと値上げラッシュ、そして45歳定年制みたいなリストラの足音でしょう。そして聞こえてくるのは「これからは○○しないと(できないと)生き残れない」とか言う脅迫じみた天の声であります。
 ただまぁコレ、これからも生きていかねばと思うから不安や苦労があるわけで、いっそのこと生きるのを放棄してみてはどうか、と思うのですわ。
 そこで今年初の日記は冒頭の一休禅師の狂歌にちなんで「めでたくもありめでたくもなし」な話題を述べてみたいと思います。
 冒頭でも述べましたが、ウチら氷河期キモオタ非モテ童貞は当たり前ですが養う家族も子供もおりません。そして氷河期ゆえにあとちょっとで生涯未婚率に組み込まれるので結婚等の人生のイベントが発生することもなく、あるとすれば親の死か自分の死しかないと言えます。また、何かしら才能があればとっくに開花しているはずで、この歳までなーんにも起きなかったって事はこれから先も何も起きないんであり、我々が考えるべきは今後起きる人生イベントではなく、むしろいかに死んでいくかということになります。
 と言っても死んだあとのことは何も分からないので対策も何もあったもんじゃないのですが、いわゆる死生観というやつに照らせば、これまで世界中の宗教を軸にして様々な人達が死後を想定しており、だいたい同じような概念として天国と地獄のいずれかに人はたどり着くとされております。ただし東洋の考え方では輪廻としてこの世に転生してしまうパターンもあるようです。
 西洋やイスラム系のいわゆる神に帰依すれば自動的に天国に逝ける考え方と違い、東洋というか仏教系の場合この輪廻転生と言うやつがくせ者になります。何せ死んだ後の行動を間違えると現世に戻ってきてしまうからです。これを防ぎ間違いなく極楽浄土へ逝けるようにするため、葬儀の場では僧侶が枕経(まくらぎょう)というものを説法します。葬式で坊さんが唱えているお経はまさにこれです(※注:故人への説法ではなく阿弥陀仏に対して故人を救うよう唱えるものだとする説もあります)。
 なお、1960年代に世界的に有名な枕経である「チベット死者の書」てのが流行ったことがありましたが、これは死生観を知りたいのではなくてサイケデリックを味わいたいヒッピー達のいわば合法ドラッグとして使われておりました。もっとも、サイケデリックと言えばロックバンドの方が有名ですね。去年話題になったアニメでこの人が演奏してましたな。
 さて以上、洋の東西を問わず死生観を見てきましたが、いずれにせよ天国とか極楽とかそういう世界で永遠に幸せになりたいってのが死後に望む世界観と言えます。まぁ当たり前っちゃー当たり前なんですが、天国でも地獄でも転生でも、結局のところ自分が消えることはないようです。
 これはちょっとやっかいな問題です。なぜなら「死んでしまえば何もなくなる」が成り立たなくなるからです。死ってのはある意味いろんなものを強制中断させ帳消しにしてくれる盛大な自己破産イベントであり、それが救いとなるから自殺という手段があるわけで、何もなくならず残ってしまうのであれば死の意味が無い。個人的には死んだ後は天国も地獄も転生もなく完全に無に帰してほしい。真の消滅こそ不安や苦労から解放される究極の形態と言えるでしょう。
 と言うわけで今後わーくにがヤバくなろうが滅びに向かってようが、基本的に死んで終わりという事で結論付ければそうそう難しいことを考える必要は無いと言えます。生き残りに拘るから苦しむわけで、人は明日が臨終(臨終法話)という本願寺派勧学の説教みたいな事を念頭に置いておけば明日もそんなに苦しまないで済むかもしれません。
 というわけで今年も生きてるんだか死んでるだか分からないよう日々を送る所存です。
 それでは、また次回まで。